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2007年8月

2007年8月23日 (木曜日)

朗読の会、やります

Img_02601
彦根・醒ヶ井・地蔵川の梅花藻

8月、もう一回

 前回は急だったこともあり、参加者0でしたのでしっかり、お仕事して帰りました。

 で、25日。
 やっぱり出ることになりましたので、もしお時間あればおいで下さい。
 ガンダルフさんとこの紅茶、新規に用意いたしております♪

 それでは....。
 一応14時からです♪

2007年8月22日 (水曜日)

潮の香

輩-やから

 指輪物語に関するサイトは日本においても数知れずある。
 老舗、と言われるサイトもある。
 そういうサイトの影響は、大きい。
 サイトの管理者がどういうスタンスでそのサイトを管理運営しているかで意見・論調が異なることもそれぞれ魅力の一つだし、人気にもつながる。

 指輪物語とはなんぞや、という案内サイトと銘打ってあるが内容はかなり密度のあるサイトがあり、時々訪れては感心していた。けれど、一点、引っかかるものを感じていたが、今年になってサイト管理者が思い切って、なのだろう、持論を展開した。
 瀬田貞二さんの指輪物語とホビットについて。
 当然だが、別宮氏のあの著作についても触れ、菅原さん斉藤さんの対談の中で別宮氏のことを“輩”と言ったのは良くないとかなり厳しく指摘していた。菅原さんに対してかなりきつい表現を使い非難しておきながら、もう一人の斉藤さんについてはガンバの冒険の作者でファンだから許しちゃう、とあった。 別宮氏とはどういう人物で、どういう性格の先生だったか、と言うくだりをみると個人的にご存知ではないかとうかがえた。

 輩-やから。

 確かに、好感をもっている相手には、使わない言葉だ。
 けれど、あの対談を全文読んだ時、私には菅原さんが“輩”と言う言葉を使われた心根が理解できた。
 私も同様にそう、思ったから。

 そして、3月。
 帯状疱疹で点滴治療のため入院した折、この際にと持ち込んだ瀬田さんの遺稿となった“落穂ひろい”を読み終ったとき、胃の腑が締め付けられるような切なさと悲しみを味わった。
 こんなにも哀しい事があっていいのだろうか。
 これほどまでの痛恨な死があっていいのだろうか。
 
 瀬田さんがその人生かけた集大成となったろう作品は遂に本人の思うものとならぬまま、世に出ることになってしまった。さあ、これからというときに受けられた衝撃は、心も体も何もかも打ち壊してしまったのだ。
 菅原さんはお身内といってよいほど近しい交わりをされていた方だったから当然、その時の衝撃の惨い結果から“輩”という言葉を使われたのだとおもう。

 サイト管理者の非難の言葉が心にずっと引っかかっていた。
 忸怩だる思いが澱となって心の奥底に一つ、又一つと溜まっていく日々だった。
 とくに初心者には絶大な影響力があるサイトなだけにこのまま菅原さんに対しても非難がそのまま信じられ菅原さんへのイメージが間違ったまま信じられてしまうのではないか、そしてこの論調が“正しいもの”として認識了解されてしまうのではないか、ネットの力は大きいだけに腹だたしいけれど反論したら直ちに“瀬田信者”といわれ揶揄され、嫌なレッテルをはられてしまうようで尚の事一層焦燥とした感を抱いたままとなった。

 そんな中、ふとしたことから瀬田貞二さんを偲ぶ会が出した“記念誌”のコピーを見せて頂く事が出来た。
 届いて、嬉しくて、ぱらぱらとめくっていてふと目に入った言葉があった。

 “輩”

 それは「旅の仲間 瀬田貞二追悼文集」一部のなかで評論社社長、竹下晴信さんの書かれた『先生のこと』の文中にあった。この追悼文集の存在は知っていたし、いくつかの内容については目にしたこともあったが、全部ではないにしろまとまって読めるとは思いも寄らなかっただけに、目が釘付けとなった。

 瀬田さんがなくなる前年、11月の事。
 78年『翻訳の世界』12月号をご覧になった瀬田さんはすぐに評論社に竹下さんを訪ね、欠陥翻訳の見本として取り上げられたこと、そういう翻訳者として取り上げられた自分がシルマリリオンを訳し評論社から出すのはまずいだろうから翻訳を下ろさせて欲しい、と憔悴しきった様子でわざわざおいでになったことのお話だった。

引用させて頂く。

 『その前年の11月でしたか、先生が神保町の会社にみえられ、15分ほど時間が欲しいとおっしゃいます。それもたいへん、憔悴されたご様子で。ともかく近所の喫茶店にご案内し、そしてウィンナーコーヒーを前に、お声も聞き取れないくらい、また私が聞き返すのもはばかられる様で、うかがったのは、「かつて岩波から出版された本で...調子よく訳し筆が走りすぎた箇所があり、自分でも気になっていたのですが、直すチャンスもないまま...『翻訳の世界』という雑誌に欠陥翻訳の見本としてとりあげられてしまい...そういう翻訳者の手になるものをそちらで出されるのはまずいことと思い、お引き受けしている『シルマリリオン』の翻訳をおろさせてほしいと思います」
 こう伺っても、私としては先生の翻訳に問題があるなどと思いもよらぬことであり、また、あったとしても先生におりていただく気持ちもなく、その旨、申し上げました。ただ何分、先生のあまりのご心痛の様に気をのまれてしまい、軽々しくおなぐさめするのもはばかられたのです。』

 全部竹下さんの文章を読んで、涙が出ました。
 声を上げて泣きたいと思いました。
 瀬田さんの憔悴された姿が目に浮かびました、そしてそんな姿をご覧になった周りの方たちの心根を思い、胸がえぐられるようでした。
 
 落穂ひろいは、連載されていた当初から本として出版するよう強い要望がありましたが、瀬田さんは強く固辞されました。それは、連載というかたちでは到底完成したものではないこと、もっときちんとした資料をそろえて改定を加えなければならないということから、連載が終わっても出版されることはありませんでした。そしてようやく瀬田さんから資料や方向性が定まったので編集作業にかかりましょう、という時に体調を崩されそのまま落穂ひろいは瀬田さん本人の意を汲みさらに深い構想をもって練られぬままとはなりましたが、瀬田さんの遺稿として多くの方たちのせめてもの思いが重なって出版されました。
 それでも、出版された『落穂ひろい』は室町時代、お伽草紙から筆を起こし、日本の子供たちの文化を残さなければという強い意志をすみずみに感じさせる素晴らしい作品です。だからこそ、それゆえに、瀬田さんご本人が編集したなら、どれほどのものが世に出されたのだろうかと思うと無念としか言葉が出てこないのです。
 病院のベッドで読み終えたとき、喉の奥が痛くなりました。
 ぐつぐつと煮えたぎるような痛みがこみ上げてきました。
 怒りと口惜しさ、そして痛恨極まりない哀しみ。

 それを同じ時空列で味わった菅原さんたち、身近にいた人たちはいかばかりであったでしょう。

 “輩”

 菅原さん、そして竹下さん。
 自然とついて出てきた言葉だと思います。

 私は、瀬田さんの命を縮め、そして日本の子供の文化研究に残さなければならない作品を未来永劫、葬り去った横暴を悲しみます。日本の子供のために生涯を通じて精魂傾けてこられ続けた方は、そんな無遠慮極まりない暴力によって奪われてしまったのです。

 子供の事を『小さい人』とよび慈しまれた瀬田貞二さん。
 
 『瀬田さん、ありがとうございます。私はあなたのおかげで本の素晴らしい世界を知りました。言葉の素晴らしさを見つけました。有難う、本当に心からお礼を申し上げています、有難うございます。』

 

2007年8月11日 (土曜日)

朗読の会、再開です

赤表紙本を読む・始めます!

 講座で中断していた朗読の会ですが、再開します!

 取り合えず8月11日土曜日、14時からやりますのでご都合の良い方、おいでください。
 場所はまいどの航空会館・奥の院です。

 コメントに伝言、宜しくお願いいたします!!

 唐突に再開、です。

2007年8月 9日 (木曜日)

黙祷

20070731_2036

原爆投下

 8月9日、長崎に原爆がおちた。
 その3日前に、広島に原爆が落ちた、いや違う。
 両方とも、落とされたんだ。

 キラキラ落下傘が落ちてきて、太陽2つ分もある熱と光が炸裂した。

 亡くなった義母たち一家は、その下にいた。
 亡くなって、母は死没者名簿に加えられた。
 
 忘れちゃいけない。
 忘れるなんて絶対にできない。
 子供たちが生きている限り、そしてこれから行き続けていく為に。

 8月6日、午前8時15分30秒。
 黙祷を捧げる。
 あの日のことを思い、母がなにも言い残そうとしなかったことを考え、広島の空を思い返す。

 『おばあちゃん、原爆の影響なかったのかな...パパはどうなんだろう...』

 私に答える術は、ない。
 
 多分、大丈夫としかいえないし、それが何よりの願いであり祈りでもある。
 原爆の恐ろしさは、これからもずっと続く不安。

 しょうがないでは到底許されない不安は、未来永劫続く事を憶えておかなければ、ならない。

 『忘れません、あの日のことを、繰り返してはなりません、あの日を二度と』

 

2007年8月 1日 (水曜日)

クグロフの羊さん

クグロフの羊さん
クグロフの羊さん
話は遡ります。
大阪でスミアル定例会をエルさん呼び掛けでやりました。エルさんお勧めのドイツ料理のお店です、注文した料理もビールもみんなgood!で、ふと気が付いてたデザート。
かわいい羊のクグロフ!
遥々やって来たと言う事でエルが譲って下さり一緒に帰ってきたのですが、写真をまだ撮ってなかったので昨夜撮ったのが、上の写真です。ところが、なのです。うっかり、そのままテーブルに出したまま他の事に気が紛れしまい忘れてしまったのです…!
朝起きて、あっ、としまおうとして気付きました。
羊さん、鼻がない。
…やられました。
お菓子大好きこっちゃんに。幸い大騒ぎとなったもみじ万じゅう事件には至りませんでしたけれど、嗚呼、ヤレヤレ、です。
困ったコッちゃんだね。

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鳥撮りです

お世話になります

My Nyans

  • DeBoomo=Zash 巨猫団入団!
    新メンバーとして許可されました 025
  • 巨猫団入団!!
    ☆我が家の癒しの権化@妖怪まくらぬし、くまっちが晴れて巨猫団の団員として認められました...。 今後ともご別懇に♪ 巨猫団。 くまっちのとても素敵な想い出になりました。 1_667
  • ☆ちびおでん
    oden その年は子猫の保護に翻弄された年でしたが、その第一弾がこの子でした。マンションの通路1階においてあったタイヤ(共用部分なのでホントは不法なのだが...)のなかで泣いていたのを私が保護せざるを得ない状況でつれて帰ったのが始まり、約一週間後に実家から持ち込まれた鼻気管炎の子、そして2ヶ月後に生まれたての3匹が排水管に投げ込まれ...結局9月に我が家には9匹の猫がいた勘定になるが、哀しいことに生まれたてのチビちゃん2匹は神様がお手元にお寄せになられしまわれた。新しいお家を探し始めたものの最初に保護した子はとってもナーバス、猫と飼い主になる方との試験期間もこの子には無理かもしれない、獣医の薦めにのっかって2匹を手放した寂しさに負け残したのがチビ・オデン。もっとましな可愛い名前を思っていたのにいつの間にかメリーが毛色などから『おでん』と呼んでいたのが定着、やれやれである。ただいま2歳、我が家のトラブル・メーカーである。毎日のように大好きなメリー兄ちゃんを困らせているしちょいちょいと隠れちゃ出す爪でストッキングの伝染被害増加中。さんざっぱら『あれ、いや。これ、いや』だが夜中にそっとやってくるチビちゃん、棄てられた子の心を治す事なぞできるものではないのだと改めて思う。『どーして、おにいちゃん困らせるの?!』今日もメリーの小言が聞こえています。
  • ☆通称・クロちゃん
    kuro クロチャンの本名は長いです、彼女が何かしでかすごとに名前がくっついて行きました。 “はげちょびっち・くろぷーすけぴー・たりりんぼまーる・かす”我が家最強にゃん、ちっぽと癒しの権化くまっちと兄弟とはとても思えない“不出来”な妹です。ちっぽたちはお腹に居る時から『モンプチ』などの高級カンカンで育ったのですが、諸問題が勃発、本当は避妊手術してクロちゃん達は生まれない予定だったのです。トラブルメイカーのためにくまっち達の育ての親代わりの方達が引っ越されてしまい、クロチャンたちも生まれてしまいました...。その後なんとかクロチャンたちのような事にならぬようクマかあちゃんは避妊の手術しましたが結局生まれた5匹の内里子にだせたのは『紋次郎』と名前を付けられた子とあまりの臆病とお間抜けに里子に出せなかったクロちゃんだけ。紋次郎も里親さんと連絡取れにくくなり元気でいるのかどうか不明になっています。契約書を取り交わす事を決意したのはそういうことからもあるのですが、なんにしてもクロチャン保護に当たっては結構大変でマンション自治会のメンバーとも一戦交えた事も。『野良なんか人に馴れるもんか』といわれましたがそんな事はありませんよ、自治会メンバーの一人であるピル簿旦那の帰りを心から待ちわびるのはクロチャンですから...。 ***2014年9月9日14時32分、16歳、右目した瞼にできた腫瘍により虹の橋を渡りました。
  • ☆みぃちゃん*********************2006年8月11日 肝嚢胞により死去、推定年齢15歳
    mie 三毛のみぃちゃんは12年も外暮らしをしていたしっぽの短いチイチャクて痩せた老猫です。面倒を見ていた方が引越しされてからずーっとそれとはなしに管理人の目を盗んでご飯をあげたりしていた。ペットクラブ設立を機に管理人さんに事情を話していつでも家に入れられるようにご飯をあげてなれさせたものの果たして我が家に来てくれるかどうか心配だった。老齢化が目に付きそろそろと思っていた矢先に子猫騒動で保護が伸びてしまったが冷夏と暖冬に救われた。しかし、東京も結構雪が降るんです、1度保護に失敗して様子を改めて見ていたのですが2月霙の夜、風邪を引いたのかよろけるように隠れ場所からでてきたのを見て援軍の息子二人を引き連れ有無を言わさず保護。しばらくはケージ暮らしをしてもらいましたが現在テーブルの下をわがテリトリーにして暮らしています。歯がもう抜けてしまっているのでお粥のようにしてあげいますが食欲旺盛。カリカリも食べたがりますがやっぱり丸呑みになるのでばあちゃんだけ別メニューです。多分12歳、ですから人間で言うと90才くらいでしょうか。目が余り良くないせいもありマンション敷地内でちんまり大人しく暮らしていたことが良かったのかも知れません。おしっこをあっちこっちにしてしまうので気をつけなきゃいけませんがペットシーツで済めばいい事。何にしても“長生きしようね、頑張ろうね..”です。
  • ☆ぎずも・ぐれむりん
    gizmo ☆ギズモ・グレムリン *********2009年7月1日。 慢性肝炎からの胆石と急性の膵炎により、手術後、急逝。享年10歳。 通称ギズくん、もしくはちゅーくん、は保護する前はどんな目に会って来たんだろうか。とにかく鳴けない、のどもごろごろしない、小心者というよりとにかく臆病だ。地震雷台風は大嫌い。すぐに情緒不安定になってしまう。くまっちに抱っこしてもらいなめてもらわない手落ち着かなくて寝られない。可愛い外見ではわからない彼には痛みが残っている。里親ポスターすら作らなかったのはギズモだけだった。まぁ、マンデに似ていたことも里親探すこともしなかった理由でもあるんだけれど。
  • ☆癒しの権化 くまっち
    *********2007年5月14日午前2時38分多臓器不全により死去 kumakun クマッチ君です。ちっぽとは同腹の兄弟ですがクマ母ちゃんがどうしても預けてくれず2年半ほど外暮らしを経験。ただし、幼少時お世話をしてくださった方にとっても大事にされたためとても性格が◎。その体格といいまさに癒しの権化でございます。セラピスト・クマッチの力は絶大。傍にこられただけでもの皆安らぎに包まれふかーい眠りに誘われてしまうのです。定期試験の前は入室制限をさせてもらってます...。
  • ☆ちっぽ
    20041126chipo とにかく、我が家最高最強のニャンです。 7月7日にクマかあちゃんから預かりました、可愛くってお利巧で、人の心をなにより判っています。ワイルドストロベリーといっしよのちっぽちゃんです

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